踊り子/下田逸郎 - MoviePhoto

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投稿者:Nostalgicsong2009さん

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再生時間:03:29

踊り子/下田逸郎 - MoviePhotoフォトムービーWindows Movie Maker(XP)を使用。このところ「デジカメdeムービーシアター3」を用いていないのは、MovieMakerの使い方に、いまだ自信がない証左である。ズーム(MovieMakerでは、イーズイン・アウトという)や、「切り替え効果」(フェードのみを使用)なども試したいと考えているので、しばらくは、MovieMakerでのフォトムービーとなる・ね。王国によるゆるやかな連合国家から、天皇家を中心とした「日本」へと変貌するなか、備前国の北部6郡を、分離独立させる形で誕生したのが「美作(みまさか)国」である。成立した翌年には、搬送に莫大な費用がかかる、米に変えて、鉄を貢納することを要望しているが、中国山地は、古来からの、鉄の大生産地でもある。よく「緑が少なくなった」という話を聴くが、ここ、作州においては、現在ほど、山に木が生い茂っている時代はなかった。ひなびた山間地に、多くの長者伝説が残るのも、その「たたら製鉄」の名残りであろうか。写真は、作西(美作国の西という意)の奥座敷にあたる「湯原温泉」という温泉街で撮ったものだ。かつては、検番から芸者さんたちの嬌声が聞こえ、夜は、泊り客の出歩く下駄の音で、眠れないほどだったという、歓楽街だったそうだが、いまは、往時の喧騒を知る者さえ、少なくなってしまったと、古老は嘆く。「・・・またと行くまい湯原の湯には、三坂三里が憂いほどに・・」「・・来いというたとて、行かりょか湯原、三坂三里は五里ござる・・」唄に残された、三坂というのは、大山往来の最大の難所といわれた峠であるが、ここに石碑が一つある。江戸時代の終わりごろのものとされていて、碑文には「・・美作国の国名の由来は、ここ三坂峠にあり」という内容が刻まれているらしいが、肝心の、その「由来」は書かれては、いない。いや、おそらく、書くことを憚られる内容なのであろう。古事記に出てくる「ヨモツヒラ坂」が、、この世とあの世(黄泉)の境界線であったように、古代において「坂」というのが、聖なる分岐点であったというなら、ここ、三坂峠は、かつて「御真坂(みまさか)」という出雲王国と吉備王国の、文化境界線ではなかったのか・・それが、いつしか「ミサカ」と、短く呼ばれるように至った・と考えても不自然ではないはず。さらに・・峠の南側には、山久世という集落があり、そこの教育委員会が編纂した小冊子に、「スサノオの妹が、彼に逢うため、出雲へと向かう途中、この部落で病のためになくなった」という伝説が記されていた。「妹」というのは現在の意「シスター」ではなく、古代であれば「恋人」あるいは「許婚」のニュアンスが濃い。彼女が、国境線とも言うべき、三坂峠の吉備王国側で、死去したというのも、意味深な出来事である。「砂鉄」という文字通り、宝の山の争奪戦において、いつのときか、前大和朝廷軍が吉備に味方して、永く、吉備・出雲の境界線だった「御真坂」を現在の、岡山・鳥取県境まで北上させた・そのことを吉備が「忘れないために」、国名に刻んだのではないだろうか・・・などと、どうでもいいようなことを(笑)湯煙の中で考えた。

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